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メルクリンとミニチュア模型制作の専門店


(写真9/機関車博物館への入り口)
(写真9/機関車博物館への入り口)
鉄道部門の展示には、先ほども触れたようにかつてのアンハルターバーンホーフの機関車庫が利用されています。展示会場入り口には、でっかい彫像に挟まれる形で一台の機関車が展示されています(写真9)。この彫像は先ほどこちらに向かう途中で見かけた駅舎のファサードを飾っていたモニュメント。ちょっとディフォルメされてるけど前出のメルクリンのキットにもちゃんと付属しています。この人たち、金剛力士みたいにここの機関車の守り神なのかもしれませんね。機関車は年代順に展示されており、機関車についての説明はもちろん、その時代背景について記述したパネルも充実しています(写真10)。また、駅舎の看板や券売機、自動販売機など、駅の付帯設備の展示もあります(写真11、12)。いくつかの線路の下にはメンテナンス用の地下壕があり、下から車輛を観察することもできます(写真13)。
(写真10/機関車博物館内部) (写真11/駅の看板)
(写真10/機関車博物館内部) (写真11/駅の看板)
(写真12/アンティークなスーツケース) (写真13/機関車を下から観察することも)
(写真12/アンティークなスーツケース) (写真13/機関車を下から観察することも)
さて、本来ならばすべての機関車コレクションについてご紹介していきたいところなのですが、ページの都合上、以下ではここで出会った印象的な機関車クンたちを私、三宅が独断で?紹介していきたいと思います。
(写真14/機関車トーマスみたい?) (1)機関車トーマスみたい!プロイセンのテンダー機関車 緑のボディーがとにかくかわいいので撮ってみました(写真14)。1900年代にプロイセンで大量生産されたT9シリーズです。テンダー機関車とは蒸気機関車の一種で機関車に炭水車(テンダーとも呼ばれる。ボイラーに投入する石炭及び水を積載した燃料運搬車両)が接続されたタイプの機関車です。ベルリンでは環状線を走る旅客列車(Sバーンのはしりですね)として用いられました。
(写真14/機関車トーマスみたい?)
(写真15/過酷な労働条件に耐えたせいか、傷みもけっこう激しい) (2)植民地時代を支えた「Orenstein & Koppel社」のナロー カイザーウィルヘルム2世の時代、ドイツは他のヨーロッパ諸国とともに世界における覇権を争っていました。1884年よりドイツはアフリカのトーゴ、カメルーンを植民地化。そこに大規模なプランタージュや鉱山を開拓し、搾取した農作物や鉱物を本国に送りました。こうした一連の植民地化活動において活躍したのがこのKoppel社製のナローゲージ機関車です(写真15)。写真の機関車は1903年製のもので、長らく北スペインで鉱石の採掘に利用されていたそうです。ナローゲージ(しかも超ナローな600mm)はそもそも、劣悪な走行環境に合わせて開発されており、車輪の径が小さく、そのため縦に連なる二つ車輪軸の間隔が狭くなるために、走行時の安定性が増すという特徴を持っています。
(写真15/過酷な労働条件に耐えたせいか、傷みもけっこう激しい)
(写真16/1シリーズは昔のICE) (3)電化対応の1シリーズ/1939年製、1956年改造モデル 1シリーズは都市間を結ぶ高速機関車(今で言うICE)として名を馳せた機関車です。著者もかつてドレスデン機関車フェスティバルへ、ベルリンからこの1シリーズで旅しました(「ドレスデン機関車フェスティバル」の稿を参照してね!)。写真16は1939年から生産が始まった、電化対応の1シリーズです。ベルリンに本拠地をおく車輛メーカー、シュヴァルツコップフ(Schwarzkopff)が受注を受けましたが、戦争開始のため受注された204本のうち55本しか生産されませんでした。結局、電化対応の部品も戦時中にすべて取り外されることになります。戦後、多くの1シリーズは西ドイツが所有することになりました。しかし今度はドイツ南部から本当に電化の波がおしよせ、1シリーズは活躍の場を北部に追われてしまいます。こうして1シリーズは1975年をもって、完全に現役から退くことになりました。
(写真16/1シリーズは昔のICE)
(4)第二次世界大戦時代、ナチスドイツの野望を乗せた52シリーズ コッペル社が歴史上再び現れるのは第二次世界大戦中のことです。どこか牧歌的でやさしいイメージのあるコッペルですが、こうしてみるときな臭い歴史に関与していることが分かります。写真は第二次大戦中に量産され、ナチスドイツの東方侵略に用いられた52シリーズ、1944年製です(写真17)。1942年よりドイツ帝国鉄道は50シリーズの簡略モデルとして52シリーズ、通称「戦闘機関車 (Kriegslok)」の生産を開始しました。このモデルでは東方への長距離走行を可能し、また原価低減と量産化をはかるため、構造の徹底した簡略化と軽量化が試みられました。たとえば、このモデルでは蒸気の予熱装置はなく、その分燃費の悪化(石炭の消費量の増加)を招いています。その他、50シリーズに装備されている多くの部品がこのシリーズにはなく、また素材も鋼鉄以外のものを多く使用しているため、この蒸気機関車は5年と持たない代物であったといいます。そもそもナチスは短期決戦を見込んでいたので、5年もてば十分という見込みのもとに生産をしたのでしょう。こうして1942年から10年の間に、52シリーズは7300台も生産されました。皮肉なことに、この機関車は戦後、「平和の機関車(Friedenslok)」と呼ばれるようになります。東方へ侵攻しそのまま回収されなくなってしまった機関車はそのまま現地にとどまり、戦後復興のお手伝いをすることになったからです。とはいえ5年保証の車輛ですから、戦後大規模な改造が必要でした。ドイツ本土では、西ドイツが全面電化のため1963年でこの機関車の使用をストップしたのに対し、東ドイツでは1988年(なんとドイツ統一の二年前!)までこの機関車は現役で活躍し続けていたのです。
(写真17/52シリーズは戦争と平和を見つめた)
(写真17/52シリーズは戦争と平和を見つめた)
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